2024年1月18日木曜日

2024年1月・能登 〜内科医の5日間の活動記録①〜

2024年1月1日 1610分に石川県能登地方の深さ約15kmでマグニチュード(M)7.6の地震が発生した。この地震により石川県羽咋郡(はくいぐん)、志賀町(し かまち)で最大震度7を観測したほか、能登地方の広い範囲で震度6弱以上の揺れ を観測するなど、被害を伴った。

                                  令和6年1月2日 地震調査研究推進本部 地震調査委員会データより



新年はお正月の初詣の願いも虚しく、大変な状況になりました

石川県は自分の故郷であり、すぐにでも支援に行きたい気持ちにかられましたが、

自分にはそのようなスキルも知識もなく、歯痒い思いでした


そんな中、上司が現地に支援に行くことが決まり、

次は自分が支援にいかせてもらえることになりました


出発までに時間があったので、災害医療について調べ勉強しました


そして仲間に時間を作ってもらい、自分も災害支援にいくことができ、

無事に帰ってこられたため、その経験を共有したいと思います


この経験は自分一人で得たものではなく、多くの人がご尽力いただき、

時間を捻出してくださったものであり、他の皆様にも共有すべきと考えました


今の被災地がどのような状況にあるか、実際に被災地では何が求められているか、

今後、自分の住んでいる場所が被災地になった場合に何をすべきか、

考えるきっかけになれば幸いです

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能登地震災害の支援記録

 


1月某日(活動初日)

 

8時半に病院を出発し、現地へ


途中雪がぱらつき、吹雪いていた場所もあったが、無事に目的の高岡まで到着

その後、七尾から穴水、輪島へと入る道がひどく危険が道が多かった


   


通行止めも多く、ナビ通りにいくと危ない道もあった


家が崩れており、道路が塞がれてしまい、

迂回路を自衛隊の車や被災地支援の車がたくさん通るため、

少し渋滞していたが、そこまで長い渋滞ではなかった


17時前に輪島市内に入れた

輪島市内は七尾や穴水とは比べ物にならないくらい酷かった


壊れた住居は全て手付かずといった状態

全壊している住居が多すぎて、どこから手をつけて良いのか・・・という状態なのであろう

中にはおそらく逃げ遅れた人もいると思われる




思ったよりも早く入れたため、近隣の拠点病院へ


これから支援する避難所から入院を依頼するならW病院であるため、

一目見ておきたかった


情報は錯綜し、誤った情報が流布する

そして刻一刻と情報は廃れていくため、

自分の足で取りに行くことが重要と考えたためである

 

 

1745分 これから支援する避難所に着いた

駐車場は波を打つように上下していた


所々に砂や砂利が敷き詰められており、応急処置の跡がある

駐車場は道路までいっぱいだったが、案外停めることができた


 

早速、避難所の状況を確認した


できていたこと

・名前の名簿

・ゾーニング

・土足禁止

・役割分担:行政、医療、ボランティア

・避難所内の診療所の役割:簡単な薬の処方、カルテ記載

・飲水や食料は十分

・物資はほぼ充足しているものと足りないものがあった

・移動は車

・電気・照明は問題なし、wifiは弱い、上水はO K、下水はNo

・暖房はストーブあり

・住居スペース:確保あり、使えない場所もいくつかあり封鎖されていた

・支援者が休む場所あり

・入浴は自衛隊がお風呂を用意

・歯磨きや手洗いは可

・ゴミ捨て場あり

・ベッドはなし

 

できていなかったこと

・詳細な名簿:男女比、子供の数、要介護者の数

・マッピング:どこに誰がいるかの把握がまだ

・隔離部屋の環境整備

・ペット避難所

・トイレ問題:下水が通っておらず使えず、汚れてしまうのでトイレ掃除の係あり

Command and Control

DMATとの連携

・足りない物資の供給

・段ボールベッドの供給

・洗濯













これらは避難所アセスメントである


被災地にいち早く入った部隊は各避難所を周り、上記をアセスメントする必要がある

アセスメントには統一された基準が必要であり、それがD24Hである


D24Hを使って避難所ごとにアセスメントを行い、

DMAT本部が全体像の把握に努めていた


我々はある避難所に活動拠点を起き、

その避難所運営をお手伝いする活動がメインであった



すでに避難所内では感染が流行しており、

感染部屋が確保されたばかりの状態で引き継いだ



素晴らしかったのは、ゾーニングだけではない


手洗いや換気を行うように定期的にアナウンスが入っていたことや

マスクの着用がかなり徹底されていたことであった


トイレ掃除もされており、トイレは綺麗な状態を保っていた

吐物の処理もほぼ完璧にできるスタッフがいらっしゃった


土足禁止にもなっており、当初は土足で泥まみれだったようだが、

それも綺麗に掃除された後で引き継いだ

 


 

20時 市役所でDMATとの会議に出席

   人の多さと熱気に圧倒された

   初日であり、何が情報共有されていて、何が分かっていないのかが、

   分からなかった

 

20時半 避難所のマッピング(誰がどこにいるかの把握)に同行


   S先生が一人一人の被災者さんとお話しをして、

   今後の避難所のプランについて話をしていた


   最初は強張った表情で警戒心むき出しの被災者さんも

   S先生のコミュニケーション力の高さで徐々に心を開き、

   穏やかな表情へと変わっていったのが印象的だった


   マッピングは思った以上に大変であった

   日中は避難所にいない人が多く、夜になると仕事から帰ってきたり、

   車から帰ってくる人もいる


   夜の方が全体像は把握しやすいが、21時が就寝となる

   毛布が無造作に置かれており、誰がどこにいるかの把握は困難を極めた


 

22時 夕食

   最近の非常食は意外に美味しかった

 

   夜、廊下で行政の方が避難者の一人と話しているのが聞こえた

   怒鳴り声のような感じが聞こえた

   避難者さん同士でトラブルがあったようだ


 

23時 救護所の対応やフローについて教わる

 

   災害診療記録の書き方や薬の処方JSPEEDについても教わる

   カルテを綺麗に並べたり、ちゃんと記載しないと後々大変であるので、

   綺麗に整頓することが大事であると感じた

 

薬は思ったよりもあったが、あるものとないものの差が激しかった

   咳止めはほぼなかったが、全国的に品薄なので致し方なかった

   

途中で嘔吐した人などの対応

トイレがすぐ近くにあり、吐物の処理をボランティアさんたちが行っていた

 

0時 そろそろ就寝しようかと思っていたら、

救護所の扉がノックされ、感染部屋で倒れた人がいるとのことで往診に行った

 

部屋から出ようとしたら、倒れてしまったようだ

顔は真っ青で冷や汗をかいている20代くらいの男性


すぐに横にして、脈を触れると微弱であった

会話は可能であり、バイタルを測定した


   状況から脱水に伴う起立性低血圧と判断し、水分をとってもらった

その後、トイレに行きたいということで付き添って同行した

排尿後、再度水分摂取励行してその場を離れた


感染フロアは、コロナ、インフル、腸炎の人だけの生活スペースであった

コロナ>腸炎>インフルの順で流行していた


このフロアでは有事の際の取り決めもなく、

感染されていた方が救護所まで呼びにきてくれた


感染フロア以外の方は助け合って生活されていたが、

感染フロアに入っていた人は家族と離れ離れになっていた人もいた


食事やゴミは廊下に置かれており、物資の補給も十分ではなく、

劣悪な環境そのものであったため、環境整備が急務であると感じた


この避難所で一番の辛い目に遭っている人達が一番ひどい環境にいた


感染フロアのトイレは腸炎とコロナ・インフルで別れていたが、

男性用の看板が残っており、男性はそちらでトイレをしていた

→男性用の看板を見えないようにした



2時 就寝(活動終了)

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