内科外来を空間軸と時間軸で考えてみた
A I時代のレクチャー
AIが医学的知識のアップデートのため活用されるようになった時代だからこそ、我々は自分で考えるということを忘れてはいけないように思う。レクチャーも同じであり、今やAIに語らせた方が医学的な知識のまとめ方や伝え方は上手である。だからこそ、自分のレクチャーではA Iができないような内容にしたい。教科書や論文をまとめた知識ではなく、自分が感じ経験した内容から抽出したものをお届けしたい。そのため、同じような内容はすでに家庭医療学では〇〇という手法や概念に言語化されており、勉強してきた人にとっては常識かもしれない。あえて自分はそういう家庭医療学を学ばずに自分で大事だと思うことを考えてみた。なぜなら考えることを止めたくなかったからである。すでに誰かが導き出した答えを知った上で自分を振り返る作業と、答えのない中、答えを探す思考プロセスは全く違う。本は読めばいいというものではない。本を読むということは、他人の思考が自分に入ってくることである。どんな身体にしたいかは、どんな食べ物を食べるかによるのと同じく、どんな脳にしたいかは、どんな本を読むかで決まる。
自分が目指すべき医師像
研修期間の終わりが近づくと「〇〇先生は何科になるの?」という質問が飛び交う。しかし、「〇〇先生はどんな医者になるの?」とは誰も聞かない。みなさん、思い出してほしいのだが、医者になろうとした時に〇〇科になろうと思っていただろうか?そうではなく、困っている人の助けになりたい、国境なき医師団に入りたい、という漠然とした気持ちがあったのではないだろうか。自分も弱っている人の味方になりたいという思いで医師を目指し、現在もその思いで医師を続けている。医師を続ける中で自分が目指すべき医師像が言語化できるようになってきた。3つのLife(命、生活、人生)を守る、心と身体をみる、Happiness based medicineの3つである。この3つを達成できれば、どこの病院の何科にいようと構わないが、結果的には今の病院の総合診療科にいることで、この3つの信念を守ることができそうなので、今の職場とポジションがあるだけである。自分のアイデンティに総合診療科というものはない。〇〇科というのは、国の決め方に似ている。もともとすでにそこに居た人々にとって、後からきた人がこの地域の人は〇〇国になりました、と言われてもピンとこない。グループを形成して何かを達成したいときは別だが、自分が達成したいことや自分の信念があれば、科はどこでも良いと思っている。
(1)内科外来の空間軸
内科外来で困るときはどんな時だろう?診断がつかない時、患者さんとのラポール形成ができない時、問題が多すぎて何から手をつけて良いかわからない時。色々あると思われるが、頻度の高い状況としては、「薬が効かない時」がある。外科医は手術によって患者さんを治し、内科医は薬によって患者さんを良くすることを生業としている。そのため、内科医にとって薬が効かないということは、外科医にとっては手術ができないのと同じことである。
内科外来の役割はなんだろう?診断をすることだろうか?薬で治療することだろうか?間違えやすいところではあるが、内科外来では診断をつけて治療をすることを目標としていない。診断や治療はあくまで我々の役割の一部である。では、患者さんは何を求めてくるのであろうか?それは、ある問題が起きて自分では解決できそうにないため、問題の解決を求めて内科外来に来るのである。簡略化すると、問題(不幸や苦しみ)を解決することが我々の役割であり、困っている人の助けになることが求められている。問題を解決することの一つの選択肢に「診断と治療」があり、治療の選択肢の一つに「薬を処方する」という行為がある。内科医は当然のように診断と治療(薬の処方)を行っているが、この一連のプロセスがうまくいかない時に内科医は困るのだと思う。
内科外来を俯瞰的に捉える 〜Patient journey〜
内科外来を医者目線ではなく、患者さん目線で振り返ってみる。まず患者さんに何か問題(困りごと、不幸、苦しみ)が発生した時に、それが何なのかを認知する。痛みだったり、だるさだったり、心の問題など言語化できないこともあるだろう。そしてそれがなぜ起きたかを考える。まず、思い浮かべるのは食事の内容である。昨日、食べたあれの匂いが少し変だった、というのは患者さんからよく聞く言葉ではないだろうか。発熱や咳といった感染症っぽければ、職場で風邪が流行っているから貰ったかな、子供が風邪ひいているからかなと、すぐに分かる。痛みであれば、昨日歩きすぎたかな、筋トレしすぎたかな。といったように、自分なりの解釈を行い自分の問題点(症状)の原因を探ろうとする。その後、自分なりの対応を行う。寝る、学校や仕事を休む、栄養ドリンクを飲む、食事内容を変える、市販の薬を使う、ネットで調べる、人に相談する。これらの対応を行ってもなお、問題が解決しない場合や他人に勧められた場合に病院にやってくる。人によってはその前に神社に行ったり、整体に行ったりすることもあるであろう。病院に来るというのは、一般の人にとっては敷居が高いものである。そのハードルを超える原動力や動機が何であるかは、初診外来では最も重要視すべきものである。ハードルには時間的(病院受診は時間がかかる)、経済的(お金も発生する)、心理的(これくらいで病院行ってもいいかな、恥ずかしい)、社会的(仕事に穴をあける、学校休む)、物理的(交通手段がない、歩くのが大変)など多くのハードルが存在する。人によってハードルの種類と高さはまちまちではあるが、そのハードルを超えたきっかけを我々は注目すべきである。ハードルを超える原動力になりやすいのは、症状が辛い、不安が強い、他者からの勧めの3つである。
総合診療とふつうの相談
ハードルが高いからこそ、普通の人は病院にはいかず、自分や周りのリソースでの解決を図る。周りに相談することで、様々なアドバイスをもらえる。その多種多様な相談相手の対応こそが、ふつうの相談0である。ふつうの相談0では常識的な対応がされる。身体を病んだ時は薬を勧められたり、マッサージや運動、湿布、塗り薬など、主には自分が経験してよかったことや知っている知識をもとに対応がなされる。心を病んだ場合は、傾聴や慰め、ポジティブな意見をもらったり、励まされたり、叱責を受けたり、あえて無視されたり。様々なアプローチがとられる。そのふつうの相談0での対応こそが、心理療法の原石であり、それを抽出したものが専門的な心理療法(ふつうの相談A)となっている。
しかし、晴れの日(ふつうの精神状態)であればこのような常識的な素人的な対応でも解決に至るが、雨の日(その人が分からなくなった)の時には、常識的なアドバイスでは対応ができなくなる。雨の日には、ふつうの相談0では対応できず、専門的な精神・心理療法が必要となる場合があり、それがふつうの相談Aである。ふつうの相談Bは、背水の陣をひき、とりあえず問題を抱えている患者さんを自分が引き受けるという手法である。ふつうの相談Cはみんなに相談するということである。総合診療はふつうの相談Bの覚悟や心意気を持ち、ふつうの相談0の場所を作り、必要に応じてふつうの相談AとCへと繋げられることである。
とりあえず、何だかよく分からないけど、自分が引き受けて一生懸命考えて、患者さんと進んでいくという覚悟があるか、それが総合診療科に求められる要素である。その範囲が狭くても許されるのが専門家であるが、働く環境や病院の規模によっては専門家であっても総合診療的に振る舞う必要がある。
クラインマンのヘルスケアシステム
ふつうの相談0はいわゆるクラインマンのヘルスケアシステムでの民間セクターの解決方法である。クラインマンのヘルスケアシステムでは、問題が起きた場合に民間セクターと民俗セクター、専門職セクターでの解決が図られる。民俗セクターでは宗教治療や民間療法、儀式、薬草などといった非専門職的な治療が行われる。専門職セクターは国家資格が必要だったり、パブリックな治療者での治療である。我々医療者はこの専門職セクターに入る。重要なことはどの治療が患者さんにフィットするかは分からない。我々医療者は主に西洋医学的な思考プロセスや科学の力を借りて、人間が恣意的に作り上げた病気を診断しエビデンスに基づき治療を行う。その説明モデルを患者さんと共有することが重要であり、説明モデルが共有されないと治療はうまくいかない。
説明を処方する
問題が起きた時の説明モデルは人それぞれである。我々の説明モデルに同意されない方もいるだろう。人の身体の中でどうして不調が起きたかを説明する方法は、これまで生きてきた経験や知識によって異なる。漢方によってうまくいった経験があれば、これからも漢方での治療を望まれるだろうし、西洋薬によって副作用で辛い経験をしたら薬に対して忌避があるだろう。ワクチンも同じである。それが自分の体験であれ、他人の体験であれ、自分がその事象に対して賛同すれば同じである。説明モデルはその後の患者さんの治療原理に直結する。インフルエンザのタミフルを処方された人は、タミフルを次回も好むであろう。不眠の際のベンゾジアセピンはもっての外ではあるが、我々は患者さんを無意識のうちに導いてしまっているのである。不眠の際に非薬物療法を提案されていったのであれば、今後も薬に頼らず非薬物療法を用いて自ら解決へと進むことができる。
薬の処方は患者さん自身の自己解決を推し進めるというよりは、医者主体での治療であり、なすがままである。せめて、頓服であれば、自己コントロール感が湧き、自分で自分の身体を調整しているという感覚になる。医師から処方された薬をそのまま飲み続けるというのは、言われたことをただ行っているだけであり、自分の身体にも関わらず他人がコントロールしている感じとなってしまう。そのため、医師の説明モデルに納得がいかない時やこれまでの治療歴から陰性感情が薬にある場合には、薬での治療が難しくなる。薬が効かない時は、薬のせいにするのではなく、説明モデルがしっかり共有できているかを確認する必要がある。
内科初診の流れ
内科外来の流れとしては、情報収集(病歴・身体所見)を行い、その情報をアセスメントして、自分が考えた仮説を説明し治療方針について提案する。
シンプルな疾患であれば、説明に時間はかからないが、馴染みのない疾患や状態の場合は説明に時間をかける必要がある。例えばACNESなどは病態がわかりやすいが、聞き慣れない病気であり、治療が局所麻酔であるため、患者さんへの説明が重要となる。こちらの立てた仮説をもとに患者さんが合意してくれた場合に治療へと進むことができる。相手の理解度次第ではあるが、口頭ではなく絵やパンフレットを使いながら病態について説明することで相手の理解度も高まる。薬ではなく説明を処方するだけで納得がいき、問題が解決へと進むことがある。この説明モデルが共有されているかどうか、納得できているかが、薬のコンプライアンスだけでなく、効果にまで影響する。副作用の出やすさも異なる。薬の効能は、本来の薬の作用✖️患者さんの精神状態(説明モデルへの納得感じ、薬への期待・恐怖、医師への信頼)✖️患者さんの体質で決まる。薬の効果最大にするため、紙に書いて説明も一緒に処方するのである。慢性疾患や機能性疾患、精神疾患の場合は、診断をするための情報収集ではなく、患者さんを理解するために情報を集める必要がある。そこでは、診断ではなく物語を紡ぐことが目標となり、説明ではなく物語を語る必要がある。因果は遥か昔の記憶に眠っている可能性もあり、人生を紐解く必要がある。
内科医の役割
内科医の役割としては、命を守ることは当たり前であり、社会や世間からもその役割を期待されている。当然ながら内科外来でも命に関わるような致死的な疾患はwalk inでも来院されるため、まずは命に関わる疾患の適切な除外を行い、問題を引き起こしている病気を診断する。しかし、時間のない外来では必要な情報が足りない、病気の発症が間も無くて病気の全体像が見えない、コミュニケーションの問題で情報がうまく集められない、自分が知らない病気、など多くの要因で病気の診断ができないこともある。間違えてはいけないのは、正確に病気の診断をすることが内科外来の役割ではなく(もちろん正確な診断は目指すべきところではあるが)、問題を認識し解決することである。そのために致死的な病気でないと分かれば、「時間」を使うことで病気(問題)をさらにクリアにした後で解決へと進む道もあることを提示することができる。専門職セクターにおける内科医の役割は診断と治療であるが、このプロセスにうまく当てはまらない人もいる。その場合は診断と治療の枠組みを外し、問題→解決へとレイヤーを上げて考える必要がある。内科外来に来るのは病気を診断してほしいというよりは、困っているから来ているのである。困りごとを解決できれば患者さんのニーズは達成できる。実際には解決に至らず、落とし所を探し続ける、破綻しないようにする、という目標しか立てられない場合も多いが、それで良いケースもある。
治療はオーダーメイド
内科医の治療は西洋の薬がメインではある。内科医はマイナー科と呼ばれるような泌尿器、精神科、婦人科、眼科、皮膚科の薬に弱いので、そのことに自覚的であるべきである。そして理想的には西洋と東洋(漢方薬)の両方を駆使して本人に最適な治療を提供することが望ましい。患者さんによっては漢方薬を好む人も多く、患者さんにとっては選択肢の一つとして提示しても良いであろう。薬の効能や副作用を熟知し、患者さんの病態とニーズによって薬を使いこなすことが内科医の熟練の技である。しかし、これらの薬物治療は内科医が治療できる選択肢の一つにすぎず、薬物療法以外にも非薬物療法にて治療を行うことができる。薬が効かない時、薬を拒否される時、薬で治すような問題ではない時、非薬物療法が必要となる。しかし、追い込まれての非薬物療法でなくても、普段から全て症状に対して非薬物療法を提供できるようになった方が良いであろう。咳、下痢、怪我、アレルギー、痛み、不眠、うつ、パニック発作、高血圧、糖尿病、肥満、片頭痛などあらゆる困りごとに対して、薬しか解決策がないというわけではない。生活で気を付けることや患者さん本人にできることはたくさんある。そのため、薬物療法だけでなく、非薬物療法の提示も行えるとよい。なぜなら、患者さんが病気に対して受け身にならず、自らで克服・調整していくという気になれるからである。病気によって支配されるのではなく、馬を乗りこなすように病気を手懐けるイメージである。非薬物療法には何があるのであろうか。
自己-心-世界モデルで考える非薬物療法
自己とは身体や記憶のことであり、自分ではままならない部分、コントロールできないものを指す。である。世界とは自分を取り囲む環境のこと。その中間に心があり、自己と世界の関係を調整している。この図の元はフロイトの自我の図であり、この図に世界をたすと東畑開人(カウンセリングとは何か)が作ったモデルになる。
心理学の世界ではフロイトが考え、インドでは仏教の中の唯識として考えられた構造である。フロイトの考えるエスは唯識では、末那識に当たる。どちらも「人間の心には自覚できない領域があり、それが行動を支配している」という点において、似た構造を持っている。この構造をもとにフロイトは社会への適応を目指し、仏教は悟りを開くことを目標とした。悟りを開くとは、「苦」からの開放である。これは今の医学の目標と同じであり、科学的な治療や薬がない時代に編み出されたケアである。医学の領域では、自己-心-世界モデルは、ジョージエンゲルの生物・心理・社会モデルとも言える。自己=生物、心=心理、世界=社会であり、BPSモデルといっても良いであろう。自分の目指す3つのLifeで考えると、自己=生物=命、世界=社会=生活、心=心理=人生と置き換えられるかもしれない。それらを視覚的に表すと確かにこのような図になる。図にするメリットは、生物、心、社会の界面・境界を意識することができる点である。この図をもとに、困りごとへの介入ポイントがどこになるのかを整理してみる。自己(身体・生物)を変化させることは、バイオロジカルな介入となる。身体的な部分への介入であり、薬物や手術といった医療行為がまさにここに当てはまる。医療以外には休養や運動、規則正しい生活も自己(身体)への介入である。このバイオロジカルな介入以外は全て非薬物療法となる。命・生活・人生を守るためには、まずは命がないと生活も人生も考えられない。命を守るためには、圧倒的にバイオロジカルな介入が必要であり、まず緊急でバイオロジカルな介入が必要かどうかを判断する。命の危機はなく、生活や人生に危機が生じている場合やバイオロジカルな介入だけでうまくいかない場合は、非薬物療法の出番となる。非薬物療法の介入には順序がある。いきなり、心のサイコロジカルな介入は行わない。心への介入は最後の最後である。心のせいじゃないものまで、心のせいにしてはいけない。子どもであれば、いじめの問題や不登校、大人であれば過労やハラスメントを本人の心のせいにしてはいけない。それは世界(取り巻く環境)の問題である。そのため、問題への介入の優先順位としては、自己と世界に適切に対処することである。世界を変化させるのはソーシャルな介入であり、わかりやすい。インフォーマルとフォーマルなリソースを駆使する。介護保険を申請したり、家族に連絡して協力を仰いだり、学校と連絡を取り合い教室の環境を話し合ったりする。職場での労働環境について上司と話しあってもらったり、産業医との面談を提案する。DVを受けているのであれば、暴力から避難させる必要があり、通報する必要もある。世界への介入は引き算(暴力、いじめ、ハラスメント)と足し算(ケアを増やす)で考える。このように、命の危機ではないが、生活が破綻している場合には、世界(社会、環境)を調整することで生活が安定化することを目指す。生活が成り立った上で人生について考えることができるし、人生の文脈の上に生活が存在する。人生と生活は切り離せないが、より現実的なのが生活であり、人生は過去・現在・未来の時間軸で考える必要がある。
心の表層を整える 〜ソマティックな介入とコグニティブな介入〜
現実を整えるためには、バイオロジカル介入と世界への介入が必要になる。その次に現実と向き合うという選択肢が生まれる。それが、心が接する境界(心の表層部分)への調整である。自己と心の界面を変化させようとする試みはソマティックな介入であり、世界と心の界面への介入はコグニティブな介入である。ソマティックのsomaとはギリシャ語で「からだ」という意味である。バイオロジカルな身体が客観的なものだとすると、「からだ」は主観的なものである。腰が痛い、心臓がドキドキする、頭が重い、めまいがする、気持ち悪いといったように、「からだ」は五感で体験される自分のことである。身体という客観的な存在を心が体験したものが「からだ」である。これも唯識でもフロイトの図にも載っています。ソマティックな介入とは、この「からだ」を通じた対処法である。例えば、運動、ストレッチ、ヨガ、呼吸法、マインドフルネス、瞑想、早寝早起き、アロマセラピー、人という字を手のひらにかく、深呼吸、カラオケ、筋トレ、坐禅、祈りといったように、「からだ」を動かすことで心も身体も整ってくる。巷でいうストレス発散の方法とも言えるかもしれません。心理学的にはコーピングと言われており、困った状態への対処法のことである。不安になった時に何をすると落ち着くか、落ち込んだ時にどうしたらもとに戻れるか。誰しも一度は、自分なりの対処法を編み出してきたはずです。それを一緒に探す試みがコーピング探しです。
ソマティックな介入のもう一つは「気づき」です。そもそも自分が不安に思っていること、疲れていること、トラウマ状態になっていることに気づかないと、コーピングも使えませんし介入しようとも思いません。人と話す中でふと気がついたり、人に指摘されたり、気づきがソマティックな介入やコグニティブな介入の第一歩になります。
次に心と世界の境界面のコグニティブな介入を見ていきます。コグニティブとは、「認知的」という意味で、心が世界をどう捉えるかという視点のあり方のことです。人によってかけている眼鏡の違いとも考えられます。同じ世界を見ているはずでも、自分のみたいようにしか世界は見えていません。誰しも無自覚に自分の認知フレームを通じて世界を見ています。世界への介入を行ったとしても世界には、トゲが残り続けます。トゲはそれ以上変えられないが、そのトゲにどう対応するか、どう反応するかは自分の問題であり、望めば変えることができます。車が割り込んできた時に怒る人もいれば、気にしない人もいる。同じ事象であっても心の反応の仕方は人によって異なります。トゲに対する心の反応を変えるには、認知を変えることです。それがコグニティブな介入となり、最も有名なのが認知行動療法です。認知と行動を変えることが認知行動療法であり、まずは行動を変えることがわかりやすいです。自分の行動パターンを変えることで、トゲをかわすことです。肥満の人がコンビニに行くと、ついついお菓子やアイスを買ってしまうのであれば、コンビニにつながる帰り道を変えることです。飲み会でお酒の量が増えてしまうのであれば、飲み会に参加しない。嫌な上司と会うと心臓がドキドキするのであれば、上司を避ける。このようにトゲを避ける方法と、あえて浴びて慣れさせる方法もあります。自分の行動を変えることで心が変わっていき、世界との付き合い方が変わります。行動ではなく、認知を変えるときは、トゲの意味づけや受け取り方を変える介入です。慢性的な痛みのせいで人生が終わったと思っていても、本当にそうなのだろうか。TVを見ているときは痛みを忘れて笑っていたり、生活も支障なく送れている。不安や痛み、痺れ、めまいといった症状を自分が過剰に意味づけしているだけで、現実はそうではないかもしれない。そのことに気が付くためには、日記を書いてみたり、血圧や体重を測ってみたり、人とおしゃべりしてみたり、自分を客観視することが必要になる。認知の歪みは正しい、間違っているというものではなく、極端になっているということである。現実は複雑でさまざまな側面があるにも関わらず、ある一部分だけ拡大してそれがすべてだと思う時に、現実が非現実的になります。現実には様々な側面があることを検討し、認知の歪みを修正していくのが認知行動療法です。アドラー心理学など多くの臨床心理学や家族療法、行動変容、オープンダイアローグ、空の思想(中観思想)、子育て問題(親の過干渉、発達障害)、不登校問題などがここに含まれます。要は薬がメインとなる問題ではなく、ソマティックな介入とコグニティブな介入がメインとなる部分です。これらは「作戦会議」とも言うことができます。この作戦会議の場では、専門的な認知行動療法や行動変容アプローチを学ばないと行ってはいけないというわけではありません。思い出して欲しいのですが、ふつうの相談0(素人の対処法)を学問的に抽出したものが、臨床心理学や認知行動療法です。つまり、人として患者さんをよくしようと思ってアドバイスや提案をしていると、結果的に見れば、認知行動療法的なことをしていたね、それは〇〇学では△△という手法だね、といえることがほとんどです。もちろん、作戦会議の場に置いて作戦はいくつあっても良いですし、本人の病態や性格にあった介入を提供・提案することが理想的です。そのため、これらのアプローチを勉強して実践することは素晴らしいとは思います。
ですが、忘れてはいけないのは「作戦は一つではない」ということです。例えば、エビデンスがあると聞いた認知行動療法を勉強したから、そのアプローチに固執してしまう。そうではなくて、柔軟に作戦を変更できることも現場では必要です。人によってはブッダの教えの方が遥かにしっかりくるかもしれません。しかし、時間のない内科外来で空の思想について語り切ることはできませんし、自分もこれら全てを理解するのは不可能ですので、本を処方(お勧め)することもあります。本を読むことで本人にも勉強してもらいます。外来の時間で全てを解決するのではなく、外来と外来の間の時間の有効活用です。「処本」と自分はよんでいます。書店では行動療法や認知療法は、自己啓発本のところでよく目にします。(例:反応しない練習、嫌われる勇気)
各論的には、オープンダイアローグ(斎藤環先生の本)、障害者ケア(ベテルの家)、家庭の問題(マンガでわかる家族療法)、子育て問題(鳥羽和久さんの本)、不登校や発達障害の問題(本田秀夫先生の本)など、患者さんにあった本をお勧めできるとよいです。最近ではYou tubeがありますので、you tubeをお勧めすることもあります。(本田秀夫先生の動画など)
この領域への介入は内科医としての守備範囲を超えている、と考えるかどうかは人それぞれだと思います。そういった領域には手を出さない、内科医の仕事ではないという「餅は餅屋」の考え方もあります。ですが、都会には餅屋もたくさんあるでしょうが、地域にはありません。自分がどうあるべきかは、自分自身で決めていると思っているかもしれませんが、実は自分の置かれた環境が自分を作り上げているのです。
作戦会議の意義
重要なことは作戦会議の質(認知行動療法の習得度など)ではなく、作戦会議の場所があるということです。その存在だけですでに患者さんは問題の解決に近づいています。生きづらい世の中が少しだけ生きやすくなっています。家族療法の原理を知らなくても、子どもと両親の関係から自分という第三者が加わることで、家族が家族全体を見つめ直す機会になっています。独居の高齢者が内科外来に来てたわいもない話をするだけで、見守ってくれている人がいるという安心感とこれからの生活に勇気がもてます。飲酒を減らすためにどうしたらいいか、痩せるためにはどうしたらいいか、あれこれ、お互いに知恵を出し合うだけですでに行動変容アプローチでは関心期に突入しています。自分以外の第三者が自分の苦しみや問題を理解してくれているだけで、すでに患者さんの心は楽になっています。病気を診断し治療しなくても患者さんは、あなたに会うだけで不安が少し緩和されているのです。
内科外来では問題解決への糸口を探し、自分のアセスメントを伝え、作戦会議を行い、薬ではなく希望を処方し未来を提示します。そして、次回の外来が約束されることで、患者さんは生きていく勇気が持てます。自分というリソースを使うことで認知の歪みや家族の関係性を修正することができ、こじれてしまった人生という物語を修正する力ことができます。薬には人生を修復する力はありません。万能薬があるとすれば、それは「人」だと思います。
心を支える 〜3つの語りをきく〜
最後に心の介入です。サイコロジカルな介入は冒険のカウンセリングと呼ばれていますが、内科外来では役割が違うと思っています。患者さんは変わります。変わりたくても変わらない時に苦しんでいるのです。患者さんは病いを通じて様々な思いが浮かび、その時に語られる内容を我々は聞く必要があります。患者さんの語りには3つあります。回復の語り、探究の語り、混沌の語りです。回復の語りとは、必ず良くなる、もとに戻るという信念による語りです。誰しも自分が病気になった時に最初から諦める人は少ないと思います。骨折をしても手術して治す、脳梗塞になってもリハビリをすれば何とかなる、がんになっても抗がん剤で治す。自分を奮い立たせる語りです。探求の語りは、もとに戻るのではなく、病いや障害とともに生きる新しい自分になる物語です。Ver.2です。変わっていく自分への新たな発見や気づきが語られます。混沌の語りは、深い苦しみの故に本人がうまく言葉にできない叫び、うめき、沈黙です。本当の混沌の中にいる人々は言葉によって語ることができません。うなだれます。事後的に振り返って言葉にすることしかできません。医師が思っている以上に患者さんが自分の経験していることを筋立てて整理して話すことが難しいのです。聴く側の態度が求められるのは、混沌の語りです。このように患者さんの病いの語りに耳を傾けなければ、人生を守ることはできません。(例:TED Talks パワフルな洞察の発作 ジル・ボルト・テイラー 脳科学者が脳梗塞になった病いの物語、健康と病いの語りデータベース)
命を守り、生活を守り、人生を守る。最後に行き着くのは、人生であり心です。心の変化は過去、現在、未来へとつながるプロセスであり、全て繋がっています。
具体例を挙げると、庭仕事を生き甲斐にしてきた人が交通事故を契機に手が痺れて思うように動かなくなってしまい、庭仕事ができなくなりました。脊髄病変や骨折はなく、他覚的には外傷性変化は乏しく医学的に後遺症とは思えない。しかし、本人は事故によって手の機能が失われ、今までの健康な自分が障害のある自分に転落してしまったことを「悔しい」と嘆いています。ここでは薬で手の痺れをとることができたとしても、本人の苦痛はとれないでしょう。健康だった自分はもういない。新たな物語が始まったことに本人は受け入れられず、混沌とした語りが語られている状況です。人によってはここまで苦しまないと思われるが、どうしてこの患者さんは、これほど苦しんでいるのか。そこに患者さんを理解する上でのヒントがあります。人が大事にしているものは見えませんが、「傷」は見えます。「傷」は自分が大切にしていたものが傷つけられたり、蔑ろにされた時に現れます。この方の場合は「健康で生き生きと働いている自分」が何より大事だったのだと思われます。
このように本人の病いを理解・了解し共感します。大事なことは辛い時間を共有し、対話によって人生の物語を紡ぎ直します。あの時、大変でしたね、と振り返って言える関係が続いていくことが、人生を支えるということです。本人は病い(問題)を通じて新たな自分への物語が始まっていることにどこかで気がつき、新たな一歩を踏み出します。この方もいつの間にか、仕事に復帰していきました。自分1人での解決が難しければ、ふつうの相談A(専門家による心理療法)やC(みんなに相談)を使いましょう。万能薬があるのであれば、それは「人」であると言いましたが、もう一つは「時間」です。
(2)内科外来の時間軸
内科外来では「時間」という薬も使います。もちろん、使い方を誤れば「人」も「時間」も毒になります。初診の後に予約外来へとつながるわけですが、このDrと一緒に進んでいこうと思えるのは、お互いの中で物語(説明モデル)が共有され、治療の提案に患者さんが同意してくれている時です。しかし、予約外来を重ねる毎にどれだけ優しく話を聞いてくれても、アウトカムがよくなければ信頼はされません。医者の介入や治療によって、症状が楽になった、辛さがとれた、など何か良いことがないと、3回目はないかもしれません。医者に会って症状が悪くなっていれば、この医者で大丈夫か?と思うのは当然の結末です。そのため、初回は効果が劇的でなくても副作用が少なめで予想しやすい薬の処方から行うのが良いでしょう。ホームランを狙うのではなく、ヒットが狙える薬を選択します。人は+(効果)より、−(副作用)に敏感に反応します。例えば、リリカはいきなり高容量ではなく少量から使用したり、SSRIではなくまずは眠剤を使って眠れるようにしたり、信頼関係が乏しい初回から攻めた薬の処方はしない方が良いです。効果の前に副作用が出てしまい、苦い経験をしてしまうと信頼関係の構築が難しくなります。症状が改善していなければ、次はこんな薬を使いますよとをあらかじめ伝えておくと、副作用が多い薬も使いやすいです。(例:亜急性甲状腺炎のステロイド、糖尿病のインスリンの注射、パニック障害のSSRIなど)もちろん、症状が重く早期から攻めた治療をする時もあるのでケースバイケースです。症状が多岐にわたり、何から手をつけていいかわからない時もあります。治療の優先順位は本人が一番困っていること、生活に支障をきたしているもの、そして治しやすいものを狙います。初回から全ての症状に手を出すのではなく、改善させやすい症状から効果を出してラポールの構築を狙います。信頼関係ができたら難しい症状への介入を始めていきます。機能性疾患は他の機能性疾患も併発していることが多く、全てを一元論として考えなくても良い場合が多いです。
こうではなく
こうなっていることが多いです。
現実世界はオッカムとヒッカムの間にあることがほとんどで、ドミノ倒しのような構図になっています。例えば、コロナにかかり後遺症で味覚障害が残存し、いつになったら治るかと不安となり、パニック発作を併発し、それがさらに不安を助長し、不眠・抑うつを呈してしまう。運動もできなくなり、体を動かす機会も減り、緊張性頭痛が悪化する。
一元的といえば一元的なのですが、それは物語として一元的に説明ができるかを考えます。このドミノ倒しを巻き戻していき、介入ポイントを探します。味覚障害は治せなくても、不眠は眠剤で改善が見込めますし、パニック発作や緊張性頭痛も治せます。パニック障害は時間がかかるのでまずは緊張性頭痛をリリースでよくしてしまう。片頭痛の予防としてインデラルを入れることで動悸に対しても治療する、というようにタイパやコスパが良いところから治しにかかり、悪循環をストップさせます。実際のドミノは枝分かれてしており、さらに複雑になっています。このドミノの全体像を初回の外来で知ることは不可能です。腎機能が悪くなってきた原因が痩せ薬(利尿薬)だったことに気がついたのは、1年後だったことがありました。暗い表情の理由が娘の非行だったことが分かったのは3年後でした。神経性過食症の人の原因が夫だったことを教えてもらうまでに、10年かかったこともあります。このようにドミノの全体像は見えていないものだと割り切っていた方がいいです。そもそも、患者さんの人生を数分間の数回で分かることなど不可能です。自分には知らない患者さんの「何か」があり、その仮定のもとで病態を推測し患者さんの物語を紡ぎあげます。最初から正しい物語(ドミノ)を完成させるのではなく、外来を通じて対話を重ね、その都度、修正する作業です。
破綻を防ぐ、軌道修正
予約の内科外来では、定期的に患者さんと会うことで、患者さんが良からぬ方向へ進んでいないかを確認し修正することも必要です。内科外来でかける時間は人それぞれであり、作戦会議が必要な方の場合やお話が止まらない患者さんの場合には長めに枠をとります。新たな薬を使ったり、副作用が心配な時、新しい問題が出現した時、精神的に不安定な時には、間隔を短くして予約をとります。患者さんが予約以外の時間外受診、いわゆる「頻回受診」をしている時は、パルス的な感じで「毎週」予約をとります。頻回受診には頻回予約で対抗します。この問題(状況)の解決は薬では無理です。なぜなら、受診すること自体が治療になってしまっている構図だからです。そのため、頻回予約で自分が不安を他の方法(対話や薬)で取り除き、今後どうしていくかを話し合う必要があります。この人についていけば何とかなる安心感 、見守られているという安心感、次があるという安心感、相談できる場所があるという安心感、一緒にその人の現実に向き合ってくれる安心感、これくらい外来受診では安心を処方することができます。そのため、BZDのように依存しやすいとも言えます。共に共通の敵(アルコール、病気、症状)に立ち向かうのであって、頻回受診をしている患者さんと立ち向かっては行けません。
大事なのは、外来がない間の対応です。逆説的ではありますが、外来がない間の不安を取り除く術として、木曜日の午前中は自分が初診外来にいるから、体調悪ければそこにきてねと伝えておくことです。そうすれば、具合が悪くなければ木曜日に行けばいいや、と安心し不安がとれます。外来と外来の時間のほうが圧倒的に多いので、この時間をどう過ごしてもらうかが治療に直結します。そのため、非薬物療法である生活指導や行動療法が重要なのは言うまでもありません。心や身体が変わるのは時間がかかります。見つめる鍋は煮えません。適切な時間のゆとりが必要な場合もあります。未来の目標を共有し、未来に約束があることで自分や周囲を見つめ直すことができます。1人では未来を考えることもできない時でも、他者といると未来を考えることができます。
内科外来の終わり
予約内科外来が長くなると、お年をとりフレイルが進行し、病状が進んできます。認知症が出現したり、悪性腫瘍が見つかったりもします。内科の外来で気をつけている二つの代表疾患が高齢者であれば認知症、若年であれば悪性腫瘍です。この二つは命だけでなく、生活や人生をガラッと変えてしまう力があります。本人だけでなく、家族の関係性やバランスも変えてしまいます。内科外来では常にアンテナを張っておくべき疾患だと思います。認知症はゆっくりとしか進まず慣れた関係性になってしまうと、変化に気が付かず医師でも発見しにくいものです。悪性腫瘍検索はこちらから定期的に提案をします。
人生の終末期にさしかかると、命を守る優先度は下がり、人生を守ることが優先されます。これからどのように生きるか(Advanced life planning:ALP)、最終的には自分という人生の物語をどう終えたいか(Advanced care planning:ACP)を話し合います。未来を話し合うためには、過去を知る必要があります。そのため、普段の定期外来では、何が好きな人か、何を生き甲斐にしているか、普段何の話をよくしているか、何にお金や時間を使っているか、といったことを忘れないように残しておきます。本人らしい人生・最期を迎えてもらうためには、本人のことをよく知っておく必要があります。本人・家族にとってこの人生は幸せだったな、と思えるようなお手伝いができればいいと思います。QOLからQODへとシフトチェンジが進み、内科外来から入院、訪問診療へと移行していき、内科外来が終わりを迎えます。
内科外来とはどういう場所か?
内科外来ではまさしく、自分の器が問われています。自分の医師としての器と、人としての器です。あなたの予約外来の患者さん達が、あなたの器の大きさであり、深さを物語っています。そしてdrop outしていった患者さんの人数も器の大きさの指標になるでしょう。
医学的な知識も豊富で能力が高く、人として接しやすく、何でも相談できて頼りになり、医学的なこと以外も話しやすい医師が良医なのだと思います。医師としての器は、医学的な知識、これまでの経験、診断技術、適切な決断力、コミュニケーションスキル、プロフェッショナリズムなどです。人としての器とは、患者さんの語りを聴くことができ、一緒に悩み、理解してあげられ、自分を変えることができるかです。そこには利他の精神が必要になります。自分が気に入らない患者さんは来なくていい、というのは乱暴な考え方だとは思いませんか。(どこかのラーメン店の店主みたいですね)自分が気に入った患者さんや自分に従う患者さんしか来なくなるとどうなると思いますか?内科外来で予後が悪いのは、drop outしてしまった患者さんです。誰しも一度は経験があるとは思いますが、医者にひどいことを言われ嫌な思いをしたため病院嫌いになり、調子が悪くなってきた時には、末期腎不全や脳出血を発症してしまった患者さんもいます。嫌な思いからのDrop outという経験は患者さんの今後の生き方や行動パターンまでも変えてしまいます。いったい誰の責任でしょうか。人によって治療のアプローチを変えられないのはアマチュアであり、プロはオーダーメイドで治療を提供できる人だと思います。どんな患者さんにも対応できるだけの自分の器を広げたいものです。患者さん毎に自分を変えるためには、まずは患者さんを知る必要があります。人は千差万別であり、生まれてきた場所も人生も違うからこそ、いろんな価値観や人生観、死生観があります。ASDやADHD、知的障害といった発達の特性・障害もありますし、性のマイノリティや聾唖の人、社会的に孤立している人、経済的に困窮している人、外国人、特定の宗教の方もいます。物質依存やワクチン忌避もその人と同じ人生を歩めば了解可能かもしれません。まずは患者さんの性格や発達特性、キャラクター、職業、経歴、学歴に目を向け、患者さんの個人特性を理解することが大事です。DSMの診断基準による精神疾患の診断を行うのではなく、何となくでよいので患者さんのキャラクター(パーソナリティや発達特性)を把握します。几帳面、強迫的、不安や緊張が強い、焦燥感が強い、コミュニケーションが苦手、視線が合わない、ハキハキと堂々、攻撃的、イライラしやすい、横柄、尊大、傲慢、決定が苦手、操作的な発言が多い、人に依存・寄生しやすい、ベールがかかっている、妙な間がある、感情のキャッチボールができない、感情の起伏が激しい、質問と異なる回答が返ってくる、考え込んでしまう、といった素人表現でも良いので、患者さんのパーソナリティをカルテに記載するようにしましょう。自分の洞察が正しいかどうかではなく、自分がどう感じたかが大事です。そして、カルテ記載を行うことで、患者さんのパーソナリティを意識しているかどうかが分かります。意識的に患者さんを観察していると、だんだん患者さんのキャラクターや発達特性が分かるようになってきます。患者さんごとに伝わる説明モデルは異なり、治療やアドバイスの仕方も異なります。真面目で几帳面な人には栄養指導による食事療養やカロリー計算してくれるアプリは効果的でしょう。不安が強い人に毎回の血圧測定を強いると逆効果かもしれません。薬の副作用を説明しすぎると、副作用が出やすくなるかもしれません。患者さんの特性がわかれば、説明や治療内容もオーダーメイドできるようになります。しかし、患者さんによっては自分とウマが合わない人や苦手な人もいるでしょう。医師も人間であり、自分の体験した世界をもとに認知フレームが形成されているからこそ、自分の価値観と違う人や治療方針に同意してくれない人には陰性感情が湧くのは仕方ありません。まずは陰性感情が湧いていることを客観視しすることから始まります。それこそが「気づき」です。陰性感情のコントロールはまずは気づくことからです。この陰性感情が強くなると、いわゆる「difficult patient」になります。皆さんの外来にdifficult patientは何%おられますか?difficult patientや対応が難しいケースに絶対的な基準はなく、相対的なものです。以前はdifficultに感じていた状況も経験を積めば、そうでもなくなります。人によってはdifficultでも何でもないこともあります。difficult patientと感じやすいかどうかも、医師の器を客観的に見ることができる一つの指標でしょう。陰性感情をできるだけなくすためには、患者さんをよく知ることです。私たちは相手がよくわからない時に陰性感情を向けてしまいがちです。背景まで知ると、「なーんだ、そんなことがあったのか。」となることは、医学教育でもよくあることではないでしょうか。患者さんのキャラクターがわかると、この人だったらこういう時に、こんな風に言うよな、「(さすが〇〇さんらしい!そう来なくっちゃ!)」と心の中で思えるようになります。薬の飲み忘れや外来すっぽかしで予約取り直し、遅刻、検査や薬の変更に敏感などの行動パターンも予想可能となり、行動が予測しやすくなります。感情は移動します。自分の陰性感情は患者さんに伝わりますし、患者さんの陰性感情も医師に伝わります。そのため、診察室では陰性感情がお互いに発生させないようにすることが望ましいと思われます。
内科外来と利他
万能薬は「人」であるといったのは、患者さんによって自分をいくらでも変えることができる可塑性があるからです。利他の精神とは、「汝が他人にしてもらいたいと思うことを汝も他人に対してなせ」ではありません。これは他人と自分の間で何を大切に思っているか、が共有されている場合にのみ利他となります。他人と自分は似た存在であるという前提がなければ機能しません。現代は大切にしているものが1人1人ずれています。それが多様性の時代です。この認識からしか利他は届きません。そうでなければ、良かれと思って行ったことは、ありがた迷惑であり、正義の強制になります。例えば、高血圧に対して問題と思っていない人に向かって、血圧を下げなければ脳出血を起こして死ぬかもしれませんよ、と言うのはどう思いますか?この患者さんが高血圧で脳出血を起こして寿命が短くなる可能性も十分、承知の上で血圧の薬を飲まないという選択をしているのであれば、命よりも大事な信念を抱えているということです。それを我々は命が大事なのは当然だと考えて、降圧薬を強制するのは利他とは言えません。多様性の時代の現代では、利他の定義は、「その他者が大切にしているものを尊重する」ことであり、「自分の大切にしているものよりも、その他者の大切にしているものの方を優先すること」です。そのため、患者さんのためと思ってやった、利他と信じて行った行為は、「きっとこうだろう」が「きっとこうであるはずだ」に変わりやすく、自分の思いが支配的になりやすいものです。そのためにできることは、知ったつもりにならないこと、自分の違いを意識すること、患者さんの言葉や反応に対して耳を傾け聞くことしかありません。傾聴とは患者さんに関心を向けながら相手を知ろうとする意識を持ちながら聴くことです。患者さんと同じところに目を向け、問題となっているテーマについて考える、三角形の構図を作ることが傾聴の前提です。
なぜ、この患者さんは頑なに降圧薬を忌避するのだろう?患者さんと向き合って対立すると、お互いの言い分を言い合って終わる平行線になりがちです。
そうではなく、こちらには見えていない部分がこの人にはあるんだという距離と敬意を持って他者を気遣うことで、意外性が見つかり他者の発見があります。それが医学的にはお勧めできない内容であり、本人の勘違いや誤った情報源からの情報の場合は、修正を試みることもありますが、修正ができなくても陰性感情を持つ必要はありません。よき利他には必ず「自分が変わること」が含まれます。「自分はそうは思わないけど、そういう考え方もあるんだな」と思えば良いのです。自分の考えが100%正しいということはありません。その時代の常識が、数年後には覆されていることなど、たった15年でも何度も経験してきました。自分の考えを変える心のゆとりはありますか?相手と関わる前と後で自分が全く変わっていなければ、その利他は一方的である可能性があります。他者の発見は自分の変化の裏返しです。利他とは器のようなものです。相手のために何かをしている時であっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていることが重要です。それは同時に自分が変わる可能性としての余白です。自分の指示に従ってくれない患者さんにイライラしている人は、自分が常に正しいと深層心理で思っている人です。その人に余白はありません。余白を作っては自分の考え方と違う他者に埋めてもらい、またさらに余白を作る。自分の器は少しずつしか広がっていきませんが、広げる努力をしなければ広がりません。内科外来は自分の器が試されている場所でもあり、器を広げる機会をいただいている場所でもあるのです。
参考文献:
ふつうの相談 東畑 開人
カウンセリングとは何か 変化するということ 東畑 開人
雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら 東畑 開人
利他・ケア・傷の倫理学 「私」を生き直すための哲学 近内悠太
「利他」とは何か 伊藤 亜紗 他
診察室の陰性感情 加藤温
魂にメスはいらない ユング心理学講義 河合隼雄、 谷川俊太郎
機能性神経障害診療ハンドブック 脳神経内科,精神科,総合診療科のギャップを埋める 下畑 享良
最終講義:心因と外因を一人の精神科医が診察することの難しさ 兼本浩祐
援助者必携 はじめての精神科 第3版 春日 武彦













































