2024年1月27日土曜日

1995年 1月・神戸を読んで


最近はTVよりもSNSやネットニュースの方が早く、情報にたどり着きます

以前よりもむき出しの情報がダイレクトにくるので、注意が必要です



大災害をお茶の間や手の中で見られるようになったことで弊害もあります


毎日、TVで流れてくる被災者の状況を知る度に心を痛めてしまう人が多くおられます

外来の患者さんの中には、
「戦争や地震のニュースを見ると可哀想で涙が出ちゃう・・・」
とおっしゃられる方もいます



自分の力が届かない状況(特に他国同士の戦争)で、
大勢の人達や子供が苦しんでいるのを見るのは、
とても辛いことです

特に共感力(といっていいかは分かりませんが)が高い人は、
影響されやすいのでしょう


そのことを自覚することは、
自分を守る上で大切なことだと思います

ニュースを見て被災地の状況を知るのはよいと思います

ですが、見ていて感情が動かされ過ぎたり、
それに対してアクションができないのであれば、
一度情報から距離を置いた方が良いかもしれません



一方、災害支援に行かれる方は情報収集は欠かせません






被災地の状況に適応できず、適応障害を発症し、
心身に不調をきたしてしまうこともありますが、
逆に頑張って適応しようとしすぎる「過剰適応」にも注意が必要かと思います


「過ぎたるは及ばざるが如し」であり、
「中庸」を目指す感覚でしょうか


イメージは車を運転している自分と
外から車を見ている自分を作り出すような感じかと思います


運転している自分は状況に頑張って適応しようとしているので、
いつの間にかアクセルを踏み過ぎていることがあります


災害支援は短期間での活動であり、何か残さないと・・・気持ちに焦りが出たり、
爪痕を残そうとする支援者が多いそうです


頑張りすぎてしまうことは致し方ないとは思いますが、
そういった自分を客観的に見れるかどうかです

(実際、自分も頑張り過ぎた自覚もありますし、爪痕を残そうとしたかもしれません)




「プッシュ型支援」という言葉を耳にすることが増えましたが、
いつまでもプッシュ型がいい訳ではありません


「一番良くないのは悪意のない悪だ」という言葉がありますが、
良かれと思ったことが、迷惑になることだけは避けたいです



ここにもDo no harmの精神があります

医療だけではなく、支援の時にも重要な原則です


"Avoid exposing people to further harm as a result of your action."
あなたの行為によって人々をより一層の害悪に晒すことがないように





気張りすぎず、頭をぶらぶらにする努力も必要なのかもしれません




電カルが使えないので、既往も内服薬もわからないことがほとんどです
避難所の救護所は、自分の家で診断・治療しているような感覚です


これは普段の診療がそのまま反映されます
普段していないことは、救護所でもできません

画像やデータbased で医療をしていると対応できないでしょう



例えば、平常時から病院の中で腹痛の方の診察をした場合、

病歴をとったら、身体所見を予想しよう
身体所見の異常を見つけたら、エコーはどうなっているかを想像しよう
エコー所見からCTがどうなっているかを考えよう
CTを見て、開腹所見を想像しよう
肉眼で見た時に病理を予想しよう


という風に自分が行う一つ先の所見を予想します


もし、それが全て当たっていたらどうなるでしょうか

なんと病歴や診察をしただけで、CTや病理所見まで分かるということです


それが自分が目指す医師像です






これはまさしくその通りと思いました

自分たちが見える問題は、支援者の数によって変わりました


同じ避難所のはずですが、支援者が多ければ多いほど、
新たな問題点が浮き彫りになってくるのは、不思議な感覚でした




震災といえば、PTSDが有名ですが、
確かに避難所で問題になることはなかったです


フラッシュバックというよりは、現実世界で余震が頻発しているので、
今まさに恐怖と戦っている状況でした


避難所の花
今回、支援した避難所のトイレの入り口にも水仙の花が置いてありました




食料も生活も先が見通せないのが、
一番の不安につながるのだということを改めて思い知りました


避難所での生活の辛さは避難所にいる人にしか分からないと思います

もちろん、数日しかいなかった自分にも分かりませんが、
以前よりは想像力が働くようになりました





避難所では、トマス・ホッブスの自然状態にあったかとは思いますが、

避難所では、コミュニティが崩壊せず、

ホッブスのような戦争状態には至らなかったということです



出発点の第1段階は,すべての人がすべてのもの に対して自然権を有する自然状態である
ホッブズは言う

「《各人は自然的にあらゆるものに対して 権利を持つ》
人間の状態は各人の各人に対する戦争の状態であり,
この場合に各人は自分自身の理性 によって統治されており,
自分が利用できるもので敵たちから自分の生命を維持するのに助けになりえないものは何もないのだから,
そのような状態において,各人はあらゆるものに対して,
相互の身体に対してさえ権利を持つ。」((Leviathan, 91,訳(1)217)  

この自然状態では,すべての人がすべてのものに対して,
つまり自分自身の生命・身体・自由・財 に対してだけでなく
他者の生命・身体・自由・財に対しても権利を持つ

この状態では,本来の権利 すなわちそれを侵害しないように
他者を義務づける排他的私的権利は存在せず,
自己の生命・身体・ 自由・財はいつでも他者に奪われる可能性がある


岡山大学経済学会雑誌 47(2),2016,81 〜 93  
ホッブズ『リヴァイアサン』の第2自然法は何を意味するのか   新  村     聡





避難所の方と普通の話をしているだけで、お互いなぜか涙が溢れてきた


この現象は「ミラーリング」や「転移感情」で説明がつけられるのであろうか

避難所では、逆転移せずにはいられなかった


涙はいっぱいになった心の器からこぼれ出るものなのであろう



ボランティアの方からの要望はたくさんあった

その矛先が市の職員に当てられる光景も目にした


無論、市の職員も被災されているのだが・・・




避難所の方の中には、病院で勤務している看護師さんや市の職員さんもいた

日中は働き、夜に避難所に帰ってこられていた

働きたくてもコロナに感染してしまい、働けない人もいた


自分のことは顧みず、親の介護や職場のことを心配されている人ばかりであった







ボランティアや支援者の意義は「存在すること」
「その場にいること」が重要なのだと知ることは、支援者を勇気づける



こんな言葉があります


知っているふりはできる

慰めるふりはできる

だが、そこにいるふりはできない



何を話すか、何を成すかよりも、
辛い状況を共に過ごすということが大事なのだと思う




援助者は引き際をいつも模索しています

ずっと居座ることは逆にレジリエンスを低下させてしまいます


自分たちがいなくても大丈夫という状況を作らなければなりません

災害支援で一番難しい時期は、最初と最後だと思います







全てを失って普通の精神状態でいられるわけがありません

むしろ、普通の反応ではないかと思ってしまいます







 


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