2026年10月31日土曜日

ACPについて 〜人生の最終章の描き方〜


























































 <「死」について> 

 現代において「死」は遠い存在になってしまった。医療技術が発達するまでの時代では、病気にかかったり、怪我や戦争で亡くなる人は大勢いた。年をとって老いることもなく、老いる前に体が元気なうちに病気で亡くなっていた。点滴や人工呼吸もない時代は食べられなくなったら、死に直結していた。ちょっとした怪我や肺炎だけでも亡くなってしまう時代だった。

 このように「死」が身近にあった時代の方が人類史では圧倒的に長いのである。だが、現代は違う。現代では身近の人が亡くなるという経験がほとんどなくなった。まれに友人や家族が若いうちになくなってしまうこともあるが、10人以上の人が身近でなくなっていることを経験している人は滅多にいないだろう。初めての身近な人の死が祖父母であることが多い。だが、祖父母の場合は覚悟ができていたり、両親が前面に立ち、医療者と話し合いを進めていくことが多く、「死のプロセス」を自分自身で経験することが少ない。

 その次は両親の「死」である。両親の「死」を考えざるを得ない時、胸が張り裂けそうになったり、気持ちが保てなくなってしまうこともあるだろう。「縁起でもない」という言葉があるように、我々は考えたくないことは、なるべく後回しにしてきているのではないだろうか。必ずやらないといけない夏休みの宿題のようなものだ。人の人生も夏休みが終わるように、必ず終わりが来る。そこの最後の宿題が、「死」(最期)について真剣に考えることである。これは誰かが考えてくれる、決めてくれるものではなく、自分たちの物語であり、自分たちが苦悩の末、導き出さないといけない。

 昔は死を常に死を意識せざるを得なかった。侍は自分の死に方にこだわりがあった。医療が充実しておらず、死を食い止めることもできなかった。「死」の現実味が強く、皆、死を意識しながら生きている時代が長かった。今は死を経験することが少なくなり、気持ち的にも実際の経験としても死が遠い存在になっている。誰も死は経験できない。他人の死しか経験できない。死んだ後どうなるかもわからない。科学的に地獄や天国があるかないか、生まれ変わったり、幽霊になったりすることは否定も肯定もできない。死については誰もわからないのだ。

 だからこそ、仏教やキリスト教といった宗教が死を説明してきた。皆が納得できるような説明や物語を死に与え、死についての解釈を示してきた。しかし、科学技術が進み、宗教の影響力が乏しくなってきた今、「死」がよくわからないものになってきている。死が畏怖の対象であったり、忌避される存在になってしまっている。

 今、「死」を一番身近で経験しているのは、我々医療従事者である。だからこそ、「死」が身近にある我々が「死」について語ることが必要なのではないだろうか。 


<自分が目指すべき医師> 

 自分は総合診療科や集中治療領域をメインに仕事をしている医者である。自分のアイデンティは〇〇科にある訳ではない。自分が医師をしているのは、3つのLifeを守れるような医師になりたいからである。3つのLifeとは命、生活、人生である。救急外来や集中治療の場面では今にも命がつきそうな人が大勢おられる。その命の灯火を消さないように、支えるのは医療の根本的な役割だと思う。

 命が続かないと生活も人生も続かない。だが、命は何とか救えたが、その後、寝たきりや言葉が話せなくなったり、食事が取れなくなってしまう人もいる。それでは命は救えても生活やその後思い描いた人生を守れたことにはならない。そのため、命を救う知識や技術はもちろん備えつつも、その人の生活や人生も救えるような医療を行うことが大事である。そのためには、その患者さんの生活について、人生についてよく知る必要がある。当たり前だが、生活スタイルやこれまでの歩んできた人生は千差万別である。生活に関しては患者さんや家族に教えてもらうが、一目見た方が早いことが多い。訪問診療に行けば、その人の生活スタイルや環境もよくわかる。自分は集中治療室にもいるし、訪問診療も行っている。患者さんの生活は病院にいてはよくわからないが、自宅に帰るとよくわかる。自宅に帰れば、患者さんではなくなる。一人の〇〇さんに戻るのである。そのゴールを目指して、リハビリを行ったり、他職種の人とカンファレンスを行い、皆で共同して生活を守っている。人生に関しては生活が成り立ったうえでの話である。

 一人一人の人生は「本」のような物語である。あらすじがあり、その後も続いていく物語がある。だが、病気や怪我が起きた瞬間、その本にコーヒーをかけられたような感じになり、これまでの物語が激変する。思い描いたあらすじ通りにはならず、自分でもよくわからない物語になったり、自分でコントロールできない人生になってしまうこともある。こんなはずではなかったのに・・・ということもあるだろう。病気になり、この先の不安もある中でどうやってその先に進んでいいかわからない時に、頼りになるのが、かかりつけ医の存在である。かかりつけ医は例えるなら、ゴルフのキャディーさんのようなものである。途中でアドバイスしてくれたり、後ろから精神的にもサポートしてくれる存在である。

 人の人生(物語)は自分だけで作られるものではなく、友人、家族、同僚といった他人も加わり作られる。病気になった場合、その登場人物の一人に、かかりつけ医が加わる感覚である。コーヒーがかかって、思い通りにいかなくなった物語だとしても、かかりつけ医と共に新たな物語を作っていくのである。そして、その物語の最終章が終末期である。最終章に向けての準備は終活と言われるが、最終章は人生の中でも最も変化が大きい。本(物語)はいつかは必ず終わりを迎えるが、どのような物語の終わらせ方にするかは自分で決められる。自分の人生は自分だけの物語である。人それぞれ、口には出さないが、自分の最期はこうして欲しい、こうやって最期迎えられれば幸せな人生だったなと思える、というようなことがあるだろう。具体的に考えている人は少ないと思うが、何となくだけでもあるだろう。例えば、拷問を受けながら、爪を一本一本剥がされたうえで死にたいという人はいないだろう。多くの人は愛する家族に囲まれながら、好きな音楽でもかけてもらって、自分のことを思い出して笑顔もあり、少しの涙を浮かべながら幸せな人生だったね。と言ってもらえながら、住み慣れた自宅で穏やかに息を引き取る、ような最期であれば多くの人は賛同してくれるのではないだろうか。

 一人一人の人生が違うように、最期の物語も一人一人異なる。医療は命を救う時にはある程度、やるべきことが決まっており、画一されたものであるが、最期の迎え方の時の医療は均質なものではなく、一人一人の価値観や死生観に合わせた最期になる。だからこそ、医療者は患者さんのことをよく知っておく必要がある。それは表面的な生活環境、家族背景だけではなく、プライベートにまで踏み込んだ性格だったり、死生観、宗教、仕事などである。その人の人となりを知っておけば知っているほど、最期の迎え方はその人の意向に沿ったものになる可能性が高くなる。人となりを知らなければ、周りの人は悩むことになる。なぜなら、最期を迎えつつある人は、多くの原因で自分の意見を伝えられなくなっていることが多いからである。

 例えば、認知症になってしまったり、脳梗塞で意識がなかったり、口から管が入ったり、薬の影響だったり、いろんな状況がある。そのため、いざ、聞きたいという時に本人の意思が不明なことが多い。それでも病状は進んでいき、いろんな選択の時が迫られる。口から管を入れるかどうか、心臓マッサージをするかどうか、など医療者だけでは決められない事案もある。

 その場合に何をもとに判断するかというと、本人の価値観や人生観、死生観である。お父さんならきっとこういう気持ちだと思う、お母さんならきっとこう言うだろうな、と推しはかることができれば、意思を代行できる。しかし、推しはかることができないと、家族の気持ちが優先されて決定してしまうことになる。そうなると、その人の物語ではなくなり、途中から家族が作る物語へと変わっていく。本人がそれでいいと、もともと意思表明をしているならそれでも良いだろう。自分の最期は息子に任せた。それはそれでいいとは思う。ただ、残された家族にはとてもプレッシャーがかかる。自分の判断一つで生き死にや寿命の長さを変えられるからだ。そのため、誰か一人で重大な決定をすることはなく、医療従事者も仲間に入り、一緒に考えていくプロセスを辿ることになる。みんなそこで思うことになる。本人が話せたり、本人と相談できたら、どんなによかっただろう。もし事前に本人の意向を汲み取れるくらい話し合っていれば、推しはかることは難しくない。本人がもともと、いつ死んでもいい。だから病院には行かない。痛い検査とか手術も嫌。楽に逝きたい。と言う発言を家族に何度もしていて、家族も本人のことをよくわかっていたらどうだろう。家族としては、痛い思いや苦しい思いをさせずに、苦痛のないように自然な形で見送ってあげることに抵抗はないのではなかろうか。

 自分で意思表示ができなくなってしまうことが多い最終章は、家族と医療者が本人の最終章を書き上げるのである。その最終章を書き上げるためには、これまでの物語をしっかりときほぐすことが必要である。その人らしい人生の閉じ方ができた時に初めてその人の人生を守ることができたと言えるのではないだろうか。

 命や生活が守れなかったときでも人生は守ることができると思っている。残された人たちの決断が正しかったのかどうかはわからないが、夢に出てきて教えてくれるのを待っている。


 <人生会議(ACP)について> 

 ACPという言葉が最近、医療界で出てきている。昔はお医者様と言われたように、医師と患者さんの間に権威勾配があるような感覚があった。医学のプロなのだから、医者がいうことは絶対に正しい、というような錯覚や医者自身にもそのような自負があったように思う。もちろん、現代にもそのような態度をとってしまう医師は存在する。

 だが、他の業界と比べてみればいかにおかしなことかよくわかる。例えば、ワインを注文するときにソムリエから、「あなたはワインのことなどわかっていないのだから、私が美味しいワインを選んであげます」と言われたら、どう思うだろうか。たとえ、こちらがおすすめのワインはありますか?と聞いたとしても、必ずソムリエは「赤か、白かどちらがお好みですか?飲みやすいもの、酸味のあるもの、辛口、どういった味がお好みですか?一緒に食べる料理は何ですか?」と質問してくるだろう。なぜ、このような質問をするかというと、私とあなたでは嗜好が異なるからである。私がこのワインが美味しいと思っても、味覚は千差万別であり、あなたにとっては美味しいワインとは限らない。だからこそ、あなたの味覚を教えてください、そのうえであなたにあったワインを選びますと言っているのである。医療の選択も同様である。医療は確実に行なった方が良いこと(エビデンス)もあるが、多くのことは不確実(エビデンスがない)であるか、メリットとデメリットが同じくらいあったり、やってみないとわからないことも多いのである。その場合、医師も絶対この選択が良いとは言えない。そもそも何が良いことかも人それぞれである。一分一秒でも長生きすることがいいのか、苦しまずに穏やかな最期を迎えることがいいのか、人によって大事にしているものは違う。

 医療行為は何らかのメリットがある一方、デメリットやリスクが存在する。逆に副作用がない薬は効果もないと思った方が良い。人によってはリスクをとってでも頑張りたい考え方もあれば、リスクを取りたくない人もいるだろう。メリットがわずかであれば、薬に頼りたくない人もいるだろう。味覚同様に、医療への期待度や依存度は人それぞれである。我々医療者はこれまでの研究結果を勉強し、自分なりの経験をもとに、あなたにとって最良なのは、こういった治療法だと思います、こういう検査をするのが今のあなたには必要だと思います、という提案をするに過ぎない。最終的に決めるのは、医者ではなく、患者さんでもなく、二人の共同作業である。患者さんの生き方や価値観に合っているのであれば、その提案は受け入れられるだろう。ただ、ワクチン然りではあるが、患者さんの思いに即していなければ、医療者の提案は受け入れられない。それでも医師はキャディーのように傍に寄り添っていく。そういった時間経過によって、人の深層心理や本当の価値観は透けて見えてくる。価値観や人生観は語って伝わるものではない。言葉にできないものだと思っている。あなたの価値観や人生観を語ってくださいと言われて、ペラペラと語れる人は少ないだろう。そうではなくて、何かを決める時の考え方や自分以外の人への意見、これまでの会話のやり取りなどから、その人らしさや人となりは伝わってくる。言葉ではなく、感覚で。左脳ではなく、右脳へ。だからこそ、人となりを一番よく理解できるのは、長年寄り添った家族である。そこに言葉はいらない。だが、医療者は違う。生活をもとにしているわけではない。やむなく、言葉というものを媒介にしてでしか、その人の人となりを把握することはできない。なので本当の意味で目の前の患者さんをわかったことにはならないと思っている。だが、わからないと諦めるのではなく、できる範囲でわかる努力をすべきである。ソムリエも同じである。本当はあなたの脳と入れ替えて味覚がわかれば、これが一番美味しいワインであることを勧められるのに、言葉を使ってでしかあなたのことを理解するすべがないのだ。言葉は万能ではない。だが、言葉しかない。言葉で表現してもらう以外は外来ではあなたのことを知る由もないのだ。言葉での表現の難しさは二つある。そもそも患者さん自身が言葉にできない。生きがいは何ですか?と聞かれても、答えに窮してしまう。生きがいというほどたいそうなものではないけど、趣味の写真をとっている時は楽しいなあ、とか。言葉は難しい。大事にしているものは普段は見えにくいが、唯一、その人が大事にしていることが垣間見える瞬間がある。それは、感情が動いているときである。つまり喜怒哀楽である。喜んでいる時や楽しんでいる時はわかりやすい。しかし、怒っているときや悲しんでいる時も、その人が大事にしているものが見える瞬間である。怒っている時は自分が大事にしているものやことが、蔑ろにされたとき、感情が揺さぶられる。時間を大事にしている人であれば、遅刻してきた人に怒るだろう。怒っている人を見たら、なぜ怒っているのか、その背景に何を大事にしている人なのか?を考える。自分が大事にしているものがわからないときは、何をされると怒りの感情が湧くかを見つめ直すと、隠れていた大事なものが浮き上がってくる。鏡のようなものだ。 もう一つの言葉の難しさは、受け取り手の問題である。言葉を発した側の意図した意味とは異なる意味で解釈されたり、受け取られてしまうこともある。なぜなら、言葉は耳と脳というフィルターを通してでしか、その人にインプットされない。必ず解釈される。あーこの発言はこういう感情からきているものだろうか〜、とか。言葉はそのままの意味を成さないことも多い。一番、わかりやすい例は、「死にたい」という発言である。「死にたい」という発言は、「死にたい(ほど辛いからこの現実をどうにかしてほしい。生きたい)」である。往々にして辛い境遇から脱したあとは死にたいという感情すら覚えなくなる。なので、言葉の字面通りに受け取ってはおかしな方向に進むこともあり、言葉の行間を読んだり、その背景にまで踏み込んで聞く必要がある。安易な解釈は御法度である。一番良くないのは、言質をとったように、言葉の切り取りである。それまでの文脈なしに、言葉は一人歩きする。本当にその言葉を信じていいか、疑心暗鬼になるくらいがちょうど良い。人を理解するというのは、それほど難しいものである。 死が身近にある職業は多くはない。現代においては医療従事者、特に医師や看護師であろう。医師は命を救う職業ではあるが、同時に看取り師の役割も担っている。命は必ず尽きてしまうため、命を守ることはできなかったが、人生は守ることができる。その人らしい人生を終えてもらうためには、これまでの人生を知っておく必要がある。なので、我々が知りたいのは、あなたのこれまでの人生や経験、考え方である。他の職業で例えると、ウエディングプランナーやフィナンシャルプランナーと同じような仕事である。エンディングプランナーとしての立ち回りが求められる。これらの職業は生きていく中で必須ではない。結婚式も金銭管理も自分や家族と決めることだってできる。同様に自分の最期も自分や家族と本来であれば決められる。しかし、死が身近になく、医療が発達してしまった今、人生の最期をどう過ごすべきかがわからなくなってきたのが現代である。近代であれば、医療は発達しておらず、人生の最期はあまり考えることもなく、均質なものであった。よくも悪くも、医療の発達とともに人生の最期の選択肢が増えてしまっている。だが、死の経験が乏しいため、人生の最期はどのような選択がベストか、どうなっていくのかが非常に非医療者にはわかりづらくなってしまった。病院や医療の中という閉ざされた空間に「死」が追いやられ、一目につきにくくなっているのである。そんな状況で人生の最期を考えていくのは正直難しいと思う。 例えば、「延命処置」という言葉である。延命処置にはネガティブなイメージが付きまとうが、多くの人は知っている言葉である。だが、そもそも何をもって「延命処置」になるかは状況によって異なる。肺炎で亡くなりかけた命を救うため人工呼吸器と、回復の見込みのない状態で繋がっている人工呼吸器は意味が違う。同じ治療法でも文脈によっては、延命処置になりうる。そのため、延命処置は希望しません。というだけでは、何も決められない。「延命処置は希望しない」という言葉が大事なのではなく、なぜ延命処置を希望しないという思いに至ったのかが、大事なのである。友人や親戚の姿をみて、辛そうだったから、なのか、TVで見たから、なのか、自分で意思表示ができずにただ、生きているのは嫌だから、なのか。その言葉が口から出てきた、奥深くに存在する本当の思いやこれまでの経験の方が大事である。自分で意思表示ができずに生きていることは、死ぬほど嫌なことなのであれば、本当に大事な価値観は自分で意思表示ができることである。であれば、意思表示ができるのであれば、人工呼吸器は繋がっても良いという解釈にもなる。本当に大事なことは、What(何をするか)ではなく、Why(なぜ)そう思うかである。何をするかを決めることには際限がない。胃管、胃瘻、挿管、人工呼吸器、透析、昇圧薬、心臓マッサージ、電気ショック、人工心肺・・・医療行為には際限がない。これら一つ一つのメリットやデメリットを理解した上で、これはやる、これはやらないときめるのは、無意味である。そうではなくて、「痛みを取り除いてくれることが一番お願いしたいこと」、「自分で食事が取れて、言葉が話せる見込みがあるのであれば、辛い治療や検査も頑張れる。だけど、自分で食事が取れず言葉も話せない状況が確定するのであれば、その場合は頑張れない。その状態で生きているは辛い。そういった状況になるのであれば、苦痛緩和に切り替えてほしい」といったように、最終的なゴール・目標を持つことが大事である。カレーの例えで言うと、ターメリック入れますか、クミン入れますか、オアルガ入れますか?と一つ一つ香辛料を聞かれてもよくわからない。そうではなくて、辛すぎない程度で美味しいカレーを食べたい。(ゴールを伝える)その上で、クミンは苦手なので入れないでほしい(やってほしくないこと)。ゴールとやってほしくないことだけ伝えれば、あとはその目標に向かって、プロがいい方法を考えてくれるのである。なので、what(何)をやるかを決めるのではなく、why(なぜ)それをやりたいのか、やりたくないのか、そしてゴール(目標)は何かを考えることが重要である。そうはいっても人生のゴール、亡くなり方を具体的に想像することは難しい。なので、場所から考えると良いと思われる。どこで亡くなりたいか。自宅なのか、病院なのか。まずはそこからで良い。場所にこだわりがなければ、いつまで生きていたかを考えるのも良い。100歳までとか、両親が亡くなったのが87歳だから、そこまでは頑張りたいとか、孫の結婚式までは頑張りたい、とか。Where、when、を聞いた上で、最期はHowどうやって?である。 よくある失敗はHowから考えすぎである。自分がどうやってなくなるかなんて、誰も想像できない。Howは考えなくてもいい。もちろん強い意志があれば、What何をしてほしくて、何をしてほしくないか、How どうやって最期看取ってほしいか、まで決めておいても良いが、それより大事なことは、Why のなぜそう思うかである。Whyの方が深いところにあり、困った時にはWhyに立ち戻ることができる。つまり、WhatやHowが決まっていても予想外のことが起きた時には応用が効かなくなる。自分のWhyがわからない時は、誰かの死を思い出すと良い。両親が亡くなった時、自分はどう思ったか。辛い思いはしないでほしいと思ったか、辛い治療も頑張ってもらってどうにか生きていてほしいと願ったか。その選択を自分が選べるか。自分の死は経験できないからこそ、他人の死に出会った時に自分の中で生まれた感情や思いが大事になる。 これまでの話は死が現実味を帯びてきた時にしか、考えられないことが多い。当たり前ではあるが、生きている人は今を生き抜くことに必死である。この物価高や災害が多い現代において、生きていくことは大変である。死ぬことを考えている暇はない。自分の最期をどうしようと考えるよりも、明日を生き抜くために生活を考えることの方が優先順位が高い。お金のこと、恋人のこと、仕事のこと、子どものこと、夕飯の献立、選挙のこと、学校のこと、体調のこと、日々の生活の中で考えることは多く、忙しい毎日を過ごしている人にとっては、自分の最期について考える暇や心のゆとりはないだろう。ましてやそれを誰かと話し合うこともハードルが高い。相手にも生活があるからだ。 だからこそ、後回しになってしまうが、ACPである。だが、病気はある日、急にやってくる。晴天の霹靂のように、重い病気を発症してしまうと、病院で口から管を入れるか、心臓マッサージはするかどうか、といった今まで考えたことがなかったことを医師から質問される。優先順位が急上昇し考えざるを得なくなってしまう状況に立たされるのが、現代の日本の医療の実情である。夏休みがあと1ヶ月あると思っていたら、急に明日までになって宿題に追われるような感覚である。そんな急に言われても、、、と思うのは当然である。事前にコツコツ宿題を終わらせておけば、こんな大変な目には合わなかったのにと、何度子どもの頃思ったことか。 だが、現実問題、日々の生活の中で家族だけで人生会議をすることは難しい。ではどうするか。そこでエンディングプランナーの登場である。現代は医師の死亡確認が必須であるため、我々は看取り師でもある。看取りの経験が多くある我々医師とともに、自分のエンディング(最期)を計画(プラン)していくのが、現実的ではないだろうか。もちろん、医師だけがエンディングプランナーになるわけではなく、看護師さんやケアマネージャーなどの医療従事者もその役割を担うことができる。誰でも良いのだが、その計画は一度で終わるはずもない。年齢や状況によって考え方は変わる。その過程を一緒に歩むことでその人の人となりもわかってくる。ACPや人生会議は最期にどうしたいかという未来の話しあいだけではない。もっと広いものであり、過去についても遡る。あなたという人はどういう人で、どんな考え方の持ち主で、どんな死生観があって、どんなことに生きる意味を見出し、どんなことに怒り、誰を大切に思っているか。その話はまさしく、患者さんが生きていた物語(人生史)を聞くことであり、そんなすぐに終わるはずもなく、あくまでプロセスである。そしてその話しあいは、早い方がいい。なぜなら情報がたくさん得られるからである。人を理解するためには、時間も必要である。ACPは辛い話しになることもあるが、楽しい趣味の話しや生き甲斐、自分が大事に思っていることといったpositiveな内容も、歴としたACPである。単なる雑談のように見える会話もあなたという人を理解する上では大事な会話である。 <まとめ> 人生会議を家の中だけで行うのは、現代において難しいかもしれない 日々の中での優先順位が低いから だが、ある日、急に優先順位が急上昇するときがくる そして、その時には一番聞きたい本人からは聞けない状況になっていることが多い なので、日々の生活で話し合えていると良い 家族だけで難しければ、医師がエンディングプランナーの役割を担うことができる 自分の物語の最終章を自分で決めたいのであれば、 自分の価値観や死生観を周りの大事な人に伝えておく必要がある 自分の最終章は家族が書くことになる その家族が困らないように What何をしてほしくて、what何をしてほしくないか、も大事だが、 Why なぜそう思うか を言葉にできると良いだろう


0 件のコメント:

コメントを投稿

ACPについて 〜人生の最終章の描き方〜

 <「死」について>   現代において「死」は遠い存在になってしまった。医療技術が発達するまでの時代では、病気にかかったり、怪我や戦争で亡くなる人は大勢いた。年をとって老いることもなく、老いる前に体が元気なうちに病気で亡くなっていた。点滴や人工呼吸もない時代は食べられなくなったら...

人気の投稿